龍が街の上に伏せている。
 イルファーロに見上げるばかりの山岳が隆起した。それは地龍と呼ばれるにふさわしい重厚な体格をしていて、胴回りに比べて細い首をしならせ、自分の脇に頭をつけて休んでいる。尾は腰から急に細くなってぐるりと回り、先端が胴体につくほど長い。
 月光が失せた闇のなか、ニルダの光はチリチリと輝く眩しい光点となり、建物より巨大な龍の脚や、山の稜線のような背中に赤い光を投げかけている。龍は小さな頭をわずかに振ってから、猫が寝る時のように首を教会の壁に沿わせて落ち着かせた。


 呆然と立ち尽くしていると、雲が流れて月が顔を出し、絹のような月光が半天に降り注いだ。淡い残像を残して龍の姿がかき消えた。見下ろす景色にもう龍はいない。
 俺は自分が深酒をしていないことを確かめた。夢を見るには頭が冴えきっている。これは一体どういう事なのか。ニルダの火のみが、神の使いといわれる龍の姿を照らし出すということであろうか。
 俺ははっとして隠しに収めていた地龍の護符を取り出してひろげた。どんな満月であろうとも、こう暗くては何も見えない筈だが、思わず指が震える。龍の描かれた輪郭が、脈動するかのようにぼんやり赤く光っている。この図案はまさに今見た通りの龍の姿だ。同じものを見た人間がいて、それを絵に起こし、こうして版画にしたのだ。どんな経緯でクォパティ寺院が配っているのかは知らないが、龍は実在するのだ。


 背後で蝶番が軋む音がして、反射的に地龍の護符を隠しにねじ込んだ。冷や水を浴びたように頭が現実に戻る。俺は黒頭巾たちの賭場に来ているのだ。大きな足音をさせないように気を付けながら建物の方に戻る。さっきのドアから人が出てきたようだ。大木の陰に身を寄せて、そっと様子を窺った。
「カリームの連れてきた男を見た? 短剣を吊ってたわよ」
 俺は闇の中にいるが、相手は松明のそばにいるのでよく見える。さっきまでグリムとカードをしていた紫のドレスの女だ。揺れる炎に照らされた仮面から金髪がこぼれ落ちているように見え、女らしい体の曲線がドレスの影に見え隠れしている。その口ぶりからすると俺のことは気に入らないらしく、何を言うのか聞き耳をたてた。
「用心棒のつもりなんだろうよ」
 この声はネバと名乗った男だ。木の幹が邪魔で見えないが、間違いない。さっきとはうって変って落ち着いた声音である。


「ゴメリーの奴、わたしからは剣を取り上げたくせに」
 女が腕組みをして言う。ネバはくつくつと笑いながら答えた。
「お前がその恰好で剣を吊ってたらおかしいだろう」
 女が剣を? まるでいつもそうしているかのような口ぶりだ。
「何でわたしが女給の役をやらないといけないわけ?」
「まあ今夜は我慢だ。ごっそり実入りのある夜だぜ。それにそのドレス、わるくない」
「勘弁して。動きずらくて仕方ない」
 女は顔を伏せてはにかんだ様子だが、すぐに顔をあげ、意地悪そうに笑うのが見えた。
「そう言うあんたも、まるで貴族みたいね」
「よせよ。とんだ道化だぜ」
 男が壁に手をついて女にすり寄った。女は慌てて男の胸に両手を当てて押し戻そうとする。男はかまわず背をかがめて女に顔を寄せる。女が背後のドアを気にして首を曲げ、何か言おうとした隙に仮面をずりあげられてしまう。暗くて瞳の色まで見えないが、なるほどこれは別嬪さんだ。女が恐れるかのように目を見開く。その額から片目にかけて、細い傷跡が走っている。


 今夜は色んなものを目にする。
 盛大な作り笑いを浮かべたゴメリー親分に、ニルダの光に照らされた地に伏せる龍、そして今度は夜陰に乗じて接吻する男女。男の胸を押し返そうとしていた女の手は、拳を握ったまま反りかえるようにして肩口まで押し戻されている。女は顎を上げ、男は顔をひねって伏せながら、口を吸い合っている。これは良い子たちが寝る前にママとかわす接吻とはわけが違う。男は女の腰に手をそえて引き寄せ、女は切なそうに目をつぶって身をすくめている。どうやら二人の唇はつながって外れなくなってしまったようだ。さもありなん、さもありなん。その情景を、俺は、自分の小便の匂いを嗅ぎながら、木陰から眺めている。くそが。


 やおら女がむせ始め、男の胸を今度は本当に押し戻した。女は顔を伏せて咳き込んでいる。男はハンカチを取出して女の口元にあてた。それを女がひきとって体を弓なりにして激しく咳き込む。どうにも尋常な咳ではない。
 やがて咳がおさまると、女は上目づかいに男と視線を絡めた。
「ネバ、あんたと手を組むっていうのは、こういうのまで込みなの?」
 俺は剣の柄にそっと手をかけた。これで全て納得がいく。神出鬼没の山賊頭ネバと女剣士イレーネは、ゴメリー親分の元に身を寄せているのだ。イレーネの問いにネバは答えない。ただその左手でイレーネの髪を撫でている。イレーネはハンカチについた血をじっと見つめてから、ネバの手を振り払い、今から思い切り笑い始めるかのような表情を浮かべた。処刑の日の朝、自分の首が刎ねられた後に刑吏たちが飲む酒を見る囚人のような目だ。


「わたしはもう長くもたない。わたしにかまってても詮無いわよ」
 ネバは跳ねのけられた手をイレーネの肩に乗せて優しく抱き寄せた。イレーネは発作の余韻に肩を上下させながら体をかたくし、頑なな目をしている。その目がちらっとネバの顔に向けられた。こちらからは見えないが、ネバの顔に答えが書いてあるのだろう。イレーネは苦しそうな顔をした。
「そろそろ戻ろう。ゴメリーが待ってる」
 ネバの声にはなんの色もなく、体を離す前にイレーネの額の傷にそっと口付した。二人はそそくさと服を直し、仮面の位置を戻し、ドアを開けて建物の中に戻った。


 これはとても俺の手に負えない。少なくとも、今は。
 ネバも、イレーネも、かなりの使い手と聞いている。本気を出したらどれほど強いのか判らないゴメリー親分もいる。それに数えきれないほどの黒頭巾たち。荒事になればグリムにも迷惑をかけるだろう。俺は自分の剣を疑ったことはないが、さすがにただでは済むまい。今夜は大人しく街に帰るしかない。


 それにしても、この胸に湧いてくる思いはなんだろう。
 俺は連中が悪党であることは知っているが、人を殺めているのをこの目で見たわけではない。あんなところを見てしまっては、どうにも、心の底から憎む気持ちになれない。やりおおせるならば、俺はためらいなく連中を斬る。しかしそれは正義のためでもなく、憎しみからでもない。俺が信じているものを成り立たせ、この先も拠り所とするためには、斬らざるを得ないのだ。



 何の憂いもなく、勝手気ままに暮らしている奴はいるのだろうか。
 山賊頭のネバも、お宝を両手に浮かれ騒ぐ毎日というわけにはいかないようだ。イレーネにしても、若い身空で不治の病に侵されている様子だ。それが人の世の常かもしれない。あるいはネバとイレーネを斬って大金をせしめたら、いい暮らしが出来るのだろうか。二人合わせて金貨三千枚の懸賞金は魅力だが、畜生め、俺の懸賞は銀貨三枚だぜ。しけた話だ。


 ゴメリー親分のテーブルに全員戻ると、ネバが襟から垂れているレース飾りの位置を両手で直しながら軽薄な声を出した。
「さあて、残りの金も巻き上げさせてもらいますかね」
 紫のドレスを着て仮面を被っているイレーネが口の端だけで薄く笑っている。さっそくゴメリーがカードをシャッフルし始める。そこへ銀盆を持った女がやってきてプレイヤーの席を回り始めた。サンドイッチのようだが、一体どこで調理しているのだろう。こんな辺鄙な場所に厨房を設えているのだろうか。
「夜食です。みなさんどうぞお取りください」
 ゴメリーも一切れ手にとってこれみよがしに一口かじってみせた。ゴメリーの太い指でつままれるとそれはいかにも小さく見える。
 女給が最後に俺のところまで回ってくる。軽く手で制したが、女は笑みを浮かべて盆を押し付けるようにしてくる。俺はしぶしぶ受け取った。アブルールの神様、今日は食べ物はもうよろしうございます。


 悪党どもはいい物を食っている。
 俺は今までサンドイッチを食ったことがないわけではない。しかしこんなに味のいいのは初めて食べる。片手で食べていると具をこぼしそうになるほどのボリュームがあって、牛肉の塩漬けを薄切りにしたものと、甘い香りのするチーズを重ねて、真四角に切り揃えたライ麦パンで挟んでトーストしてある。そこにバターをたっぷりと塗って、さらにキャベツのピクルスを挟み込み、それぞれの具の合間にタマネギのみじん切りを混ざした酸味のあるソースが垂らしてある。もう一つもらっておけば良かった。


 ゲームの大勢はゆるがない。あくまでもネバとグリムの勝負であり、イレーネは絞られ続けた。途中で一回だけ、イレーネが女王の三枚揃いで競り勝つ場面があって、賞金首と判っている俺には随分と可愛らしくみえる仕草で勝ち誇ってみせた。一瞬だけ小さく拳を握り締めて、口元を引き締めたのだ。ネバはテーブルの脚を蹴ってケッと毒づいてみせた。君たちの茶番に気付いている者もいるのだよ、とほくそ笑みたくなるが、勿論おくびにも出さない。


 イレーネの見せ金が残り少なくなると、ゲームを切り上げる雰囲気になった。イレーネは最後にネバとグリムの勝負に割り込んで、これ全部賭けると言って手持ちの銀貨を全てテーブルに押し出した。男二人もこれに乗った。最後の賭けの行方に緊張が走る。手札を開くと、三人とも二枚揃いの役しか出来ていない。ゴメリーがそれぞれを確かめてから勝利者の名を告げた。
「グリム殿の、従者の二枚揃いが上手」
 場に積まれた大金がグリムの元へ押し出された。グリムが立ち上がり、今夜はついているようだ、と言って胸に手をあて、役者のようにお辞儀をした。ネバはテーブルを叩いて悔しがり、ソファに身を預けて頭を掻いている。イレーネは小さな袋をつまみあげてぶらぶらと振り、見せ金が尽きたことを示した。


 カードを手元で束にし、役目を終えた安堵をにじませつつ、ゴメリー親分がゲームの終わりを告げた。
「今夜はここまで。勝っても負けても恨みっこなしで」
 ネバが片手を上げ、またな、と挨拶をして席を立った。重そうな金子の袋を持って素っ気なく退室していく。イレーネも一礼して女給たちの溜り場に引き上げていった。ゴメリーがテーブルを回り込んできてグリムの肩に手を乗せた。
「今、ランタンを持った者に街まで送らせます。少々お待ちを」
 グリムがにこやかに返す。
「今夜は楽しい席をありがとうございます」
 俺も席を立って入口の方に向かおうとするが、グリムとゴメリーが小声で立ち話をしているので立ち止まった。その囁き声が耳に届く。
「今夜、こちらに立ち寄らせて頂いたのは、他でもない──」
 葡萄酒を何杯か飲んでいた筈だが、グリムの声は少しも酔っていない。
「判っている。あと半月だけ待ってくれ」
 グリムが伏せていた顔を上げて無表情にゴメリーを見上げる。ゴメリーも笑顔で見返すが、目が笑っていない。隣の席に歓声があがってそれ以上は聞こえなくなった。グリムはわざわざ督促に来たようだ。大方ゴメリーは、子分たちに配っている武器や防具の支払いが滞っているのだろう。


 隣の席の声がうるさいのでそちらを見た瞬間、一人の男に目が釘付けになった。同席の男たちが大声で笑い合っている中で一人だけ立ち上がり、こんなのはインチキだと叫んでいる。それを黒頭巾の男が宥めているが、言う事を聞かないので腕を押さえつけてられている。
「手を離せ。こんないかさまはこれ以上ごめんだ」
 ああ、と目を覆いたくなる。あれは昼間に薬草屋の前で会ったフリオ青年だ。大金を持っているのを黒頭巾たちに気取られて、言葉巧みに連れ込まれたのだろう。酒も飲まされている様子で、顔が赤い。こんな場末の賭場に冒険なぞ微塵もないというのに、なんという体たらくか。
「そんなに騒ぐなら、ちょっと奥の部屋に来てもらいますよ」
 黒頭巾の表情は険悪そのものである。もしここが裏路地ならとうに殴りつけている筈だ。しかし他の客の手前、事を荒立てないようにしている。奥の部屋なる場所へ連れ込まれたら、何をされるか判ったものではない。


「いかさまをいかさまと言って何が悪い!」
 フリオが黒頭巾の手を振り払おうとして揉み合いになっている。フリオ君。こんな場所にのこのことやって来て、酒を飲み、めくりに手を出して銀貨まで賭けて、いかさまもへったくれも無いのだよ。何とかしてやりたいが、剣を帯びた俺が割って入ったら猶更ややこしいことになるだろう。暫く目をつぶってどうするか考えた挙句、ゴメリーとの話を終えて部屋を出ようとしているグリムの袖を引いた。
「グリムさん、申し訳ないがちょっと力を貸してもらえませんか」
「なんですかな」
 グリムは立ち止まって振り返り、俺の顔を見た。
「今あそこで揉めている青年はフリオといって、俺の知り合いなのです」
 グリムは、ほう、と返事をして奥の席をそっとうかがった。
「遠い村から薬草を売りに来た、世間知らずの田舎者です。ここでさんざんカモにされて怒っているようですが、このままだと危ないので街まで連れて帰りたいのです」
「なるほど」
「ですが、剣を吊るしてる俺は仲裁に向きません。グリムさんの顔でなんとか納めてもらえませんでしょうか」
「よろしい。声をかけてみましょう」
 グリムが請け合ってくれた。二人して隣の席に向かう。


 フリオ青年はいまや、二人の黒頭巾に両腕を取られて部屋から連れ出されようとしている。グリムはその真ん前に立って大声を出した。
「おや、フリオ君ではありませんか!」
 フリオも黒頭巾も一瞬手を止めてグリムを見た。フリオは自分の名を呼んだ男に見覚えがなくて首を傾げている。グリムは構わずに青いコートを払って腕を突き出し、フリオと熱い握手をかわした。
「こんなところでお会いするとは奇遇ですな」
 グリムが握った手をぶんぶんと揺するので、そちらの腕を押さえていた黒頭巾が思わず手を離した。俺も横からすっと近寄って顔を見せた。フリオは俺の顔を見て、あ、セネカさん、と呟き、俺とグリムの顔を見比べながら、やはり混乱したままでいる。俺は小声で、しかしはっきりとした口調で、もう帰ろう、と言った。
「こんな所で道草を食っている場合じゃありませんよ、フリオ君。そろそろ街に戻らないと」
 グリムが手を引くと、フリオはすんなりとついてきた。黒頭巾の二人は親分がグリムを歓待しているのをずっと見ていたので、しぶしぶと引き下がった。引き止められるようなことがありませんようにと祈る気持ちで部屋を横切り、部屋の出口へ向かった。背中に黒頭巾たちの視線を感じる。


 建物の入口まで着くと、最初にいたのとは別の女が番をしていて、一人でグラスを傾けている。娼婦のような服を着て、いい加減に酔っており、俺たちに指をひらひらさせながらまたのおいでを、と見送っている。フリオ青年が預けていたらしい背負籠を机の下から出して背に担いだ。そんな格好でうろついていたら目立つ筈だ。
 廊下の先にはカンテラをさげて待っている黒頭巾がいて、グリムに頭を下げた。そいつの先導で建物の外に出ると、俺は前に回り込んで声をかけた。
「お見送りご苦労。実はちょいと寄り道をするので、ここまでで結構だ。そのカンテラを貸してもらえるかな。後で天幕の方に返しておくから」
 黒頭巾はどうしたらいいか迷ってグリムの顔を見た。グリムは懐から手を出してカンテラを受け取ると、もう片方の手を黒頭巾の手に重ねた。チャリンとコインの音がする。
「それじゃ、ここで」
 黒頭巾は受け取った物を拳の中に握ったまま示して頭を下げると、賭場に戻って行った。


 俺はカンテラを受け取って先に立ち、暗い林のなかを歩いて二人を導いた。暫くは誰も口をきかなかった。街までの道は単純で迷いようがない。相変わらず雲は厚いが、今のところ月も顔を出している。
「危ないところを助けて頂いてありがとうございます」
 フリオが消え入りそうな声で言った。振り返って見ると、背負籠の持ち手を両手で握りながら深々と頭を垂れている。間をあけて俺が答えた。
「あそこは君のような青年が行く場所ではないよ」
「はい」とフリオが小声で答える。
 とにかく街へたどり着きたい一心で歩を早めた。それにしても、酔ったフリオ青年を街で放り出していいものか迷う。気まずい沈黙のまま、俺たちは街へ向かって歩き続けた。


 あともう少しで街に着くというあたりでグリムが口を開いた。
「すまないが少しだけ休憩させてもらっていいかな」
 辺りには小さな家がまばらに建っているが、住民たちは祭に出払っているか寝入っている様子で、窓に明かりはない。漁師町のようで、庭先には網が干してある。街まであともう少しなのにと俺は思ったが、グリムは切り株を見つけてそこに腰を下ろしてしまった。俺がその脇の地べたに座りこんでカンテラを置くと、フリオ青年も近くに腰を下ろした。


 薄暗い中に座り込んだ俺たちは、着ているものの色目を失って灰色の塊に見えた。カンテラの炎がちろちろと揺れると、足元に放射状に広がった草の影も瞬くようにその濃さを変えた。フリオの背負籠を見ながら、グリムが尋ねる。
「薬草を売りに来ていると聞きましたが、どちらからおいでなさったのかな」
 俯いていたフリオがつと顔をあげた。
「ベルマから来ました」
 グリムがベルマ、ベルマ、と呟く。フリオ青年が薄く笑って答えた。
「わずかな農地があるだけの小さな村ですから、ご存じないと思います。カオカからさらに西へ行った辺りですよ」
「そうでしたか。しかし薬草の産地はよく知っているつもりでしたがな」
 首を傾げているグリムにフリオが説明する。
「ベルマは隠れ里のようなものです。薬草は沢山採れますが、決まった先にしか売りません。名前が知れ渡ると色んな人が集まって来ますから」
 俺とグリムはなるほどと頷いた。今の時代、本当にいろんな人間が押し寄せるだろう。薬草を仕入れさせてくれという商会の者ならまだましだ。ひどい話、山賊のような連中が薬草の生えている場所に興味を持って村を襲うかもしれない。
「このご時世ですからな」とグリムがしみじみと言った。


「それにしても、なんでまた賭場に行こうと思ったのかな」
 グリムが優しく問いかけた。
「夜市を見て回りたくて、宿を探していたんです。二番街と旧市街の辺りを行ったり来たりしていたら道案内をしている人を見かけたので、泊まれる場所はないか尋ねてみたんです」
 話の向かう先が見えたような気がする。
「そしたら、この辺りの宿は高いから、少し離れた所にある黒鹿亭が良いと教えてくれました。その宿なら顔がきくから、ひと部屋あけといてやるって」
 暗澹たる気持ちになる。なんと見事にひっかかっていることか。
「それから、夜市が始まるまでは随分時間があるから、ちょっと旨い物でもつまんでいかないかって。せっかく宿の世話をしてくれるというので、夕飯くらい付き合ってあげないと悪いかなと思ってついて行ったのですが、あんないんちき博打をやっている場所とは思いませんでした」
 声には出さないが、嘆きたい気持ちになる。グリムも思わず唸っている。


「フリオさん、気を悪くしないで聞いてくれ」
 グリムが声をかけると、フリオは素直にはい、と返事をした。
「君は完全に騙されてカモにされたのだよ」
「なるほど」フリオが顔を伏せて言う。
「それと、黒鹿亭というのはスラムにあって、無法者たちがうようよしている場所だ。君などが迷いこんだら身ぐるみ剥がされて、へたをすれば殺されてしまう」
 そこが俺の暮らしている場所とは言い出しずらい。だがまあ、グリムの言う通りだ。
「助けて頂いて、本当にありがとうございました」フリオが消え入りそうな声で答えた。


「ところで君は、あの賭場に幾らつぎこんだのかね?」
 フリオ青年があっと声をあげて、腰のポーチを開いた。やっぱりそんな所に金を入れていたのか。フリオは硬貨を全て取り出してカンテラの光にかざした。手の中でコインの音をさせながら勘定をしている。
「半分以上なくなってる」
 フリオはコインを握り締めたまま頭を垂れ、拳を額にあてて唸った。
「僕は叱られます。でも仕方ないですね。こんなに酔っぱらって、大事なお金に手をつけちゃうなんて。村の皆のお金なのに……」
「半分というのは、どれくらいかね」
 グリムが懐手をしながら夜空を見上げて聞いた。こういう質問は金持ちにしか出来ない。どうもしてやれないので、俺なら聞かない。
「金貨が十五枚あったのに、七枚しかないです」
 目が覚める気がした。薬草の売り上げはそんな大金だったのか。グリムもそっとフリオに顔を向けている。


 世の中が乱れているというのは、単にモンスターが人の住む場所の近くに押し寄せてきたことだけを指すのではない。政にも不正がはびこってひどい有様である。王の取り巻きが権力を得て私腹を肥やし、その下に連なる官吏たちも賄賂で物事を決めている。例えばバイロン卿などは戦時でもないのに品質の悪い銀貨を大量に鋳造して貨幣の流通に混乱を招いている。俗に我々が銀一枚などと言うのは、大量に出回っていて真っ先に手放したいデルティス銀貨のことをいう。


 フリオ青年はさっきの賭場で金貨八枚を失ったという。
 今の実勢の両替比率はよく判らないが、おそらく金貨は銀貨の二十倍近い価値を持つ。昔は銀貨にもっと価値があったが、今ではそんなものだ。フリオはさっきの賭場で、およそ銀貨を百六十枚失ったことになる。単に賭けに負けただけではない。銀貨で賭けていたのだから、両替もしただろう。それは黒頭巾たちの言いなりの両替だった筈だ。
 銀貨百六十枚を俺が稼ごうと思ったら、丸一年はかかる。ましてそれを手元に残そうと思ったら、飲まず食わずで働かねばならない。


「フリオ君、君はいま背負籠を背負っているね」
 フリオがふと顔をあげてグリムを見た。
「はい。この背負籠がどうかしましたか?」
「それは帰り道でも使うのかね」
「使わないですけど、捨ててしまう訳にもいかないので、持って帰ります」
「そうか」
 切り株に座ったグリムはカンテラの火を見ながら何か考えている。
「もしわたしが悪い奴なら、君のような金持ちがいたことを心に刻んだだろう。薬草を売りに来た青年で、背負籠を背負っていて、金貨を沢山持っている」
 フリオが、あ、と声を漏らした。
「俺もその背負い籠は目印になってしまうと思う。そのまま背負っていたら、帰り道に危ない目に会うかも知れない」
 そう言ってから気づいた。グリムが街に入る前に止まったのは、そのせいだったのだ。並木道まで行けば黒頭巾がうようよしている。籠を背負ったカモの話が連中の間で伝わっているかも知れない。


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