廊下に人の気配がして、フィアが席を立った。
 やがて朝食の乗った銀板を抱えたメイドたちが部屋に入ってきた。後からバスケットを持ったエリーゼも入ってくる。応接室で寝ていたフリオ青年が物音で目を覚ましたので、居間の方へ手招きして座らせた。フリオは恐縮した顔で小さくなっている。
「皆さん昨晩は失礼しました。その後、よく眠れましたか?」
 あっさりした淡いグレーの格子柄のドレスに着替え、髪を上げたエリーゼが居間の入口に立って声をかけた。この人はいつもきちんとした服装をしている。
「ぐっすり眠れましたよ。ふかふかの良いベッドでした」
 ルメイの返答を聞いてエリーゼがにっこり頷いた。しかしルメイがよく寝れたのは皆知っている。肝心な時にぐうぐう寝ていたのを思い出して足を蹴ってやりたくなるが、まあやめておく。フィアが席に着いてエリーゼに声をかけた。
「ゆったりしてとても良い部屋ですわ。こんなお家に住みたいものね」
「ありがとうございます。昨夜のお詫びに朝食をお持ちしました」
「特別にしてもらってありがとうね」
 今朝のフィアは特に上機嫌にみえる。


 朝の光が窓から入ってきた。
 エリーゼがバスケットから出した食器を並べ終えると、メイドたちがテーブルの上に朝食を配膳していく。いい匂いがすると思ったらオニオンスープが湯気を立てている。子供だった頃、農園をしていた実家の朝を思い出した。収穫期には早朝から作業小屋に人が集まって大勢で朝食の卓を囲んだ。大鍋からよそったスープが横ざまに射す微かな朝日の中でもうもうと湯気を立てていたものだ。
 テーブルの真ん中に置かれた大皿にはスライスしたライ麦パンが褐色の断面をずらりと並べている。それぞれの手元に置かれた深皿には塩茹でにしたソラマメがたっぷりと盛り付けられていて、軽めとは言いながら立派な朝食である。温めたミルクのカップを置いて回ったシュザンヌが愛嬌たっぷりに笑いながら頭を下げていく。


「どうぞお召し上がりください。パンが残ったら包んで持って行ってくださいね」
 最後にエリーゼが深々とお辞儀をして出て行った。ルメイがさっそく手を伸ばしてライ麦パンを取ると、スープに付けて頬張っている。頬張りながら、うん、うまい、と唸っている。
「フリオ君も食べながら聞いてくれ。こちらがルメイ。グリムさんの古い親友だ」
 ルメイを手で示すと、フリオが頭を下げた。
「初めまして、フリオです。部屋に泊めて頂いてありがとうございました」
 ルメイは口をもぐもぐと動かしながら手刀を振ってみせた。
「こちらがフィア。さっき最後に挨拶したのがここの主人のエリーゼさんで、エリーゼさんとフィアは仲良しなので色々と便宜を図ってくれたんだ」
 フリオがフィアを見て挨拶をする。
「初めまして、フィアさん。お世話になりました」
「初めまして、フリオさん。昨日の夜の冒険はセネカから聞いてるよ」
「いえ、冒険なんて飛んでもない。迷惑をかけちゃってすみませんでした」
 フリオが後ろ頭を掻いていると、ルメイが声をかけた。
「皆も食べてくれよ。でないと俺が全部食べちゃうぜ」
 フリオがはにかみながら、それでは頂きますと言ってパンに手をつけた。


 昨夜あれだけ食べたにも関わらず、エリーゼが用意してくれた朝食に気持ちが引かれる。俺はライ麦パンを取って光沢のある焦茶色をした皮の匂いを嗅いだ。わずかに酸っぱい香りがして食欲をそそられる。スープは昨夜のビーフシチューの出汁が使われているようで玉ねぎに程よく味がしみている。セロリとガーリックのいい香りがして、卸したてのチーズも旨い。
 今日これから始まる旅は幸先がいい。うまい朝飯にありつけた上に、窓から入ってくる朝日は良い一日を約束してくれているような気がする。フィアはソラマメをぼちぼち齧りながら、俺たちの食いっぷりを見て笑っている。
「今朝早く、灯火新聞を買いに向かいのお店に行ったらエリーゼさんが店番していたのよ。手伝いの人たちは徹夜をして朝方に交替したのね」
「あの人も昨日の夜遅かったから眠いだろうな」
 答えながら、フィアの買った「ともしび新聞」とやらはパーティーの経費じゃないかなと思う。
「お祭の日はいつもこんな感じだそうよ。その時に早立ちをすると伝えたら、この食事を用意するって言ってくれたの」


 スープをうまそうに啜っていたルメイが疑問を口にした。
「話には聞いたことあるけど、灯火新聞てなんだい?」
 フィアがカップを置いた。その唇にうっすらミルクの跡がついている。そういえば昨日、酒場で会った時もフィアはミルクを飲んでいた。
「イルファーロ通信組合が出してる新聞よ。冒険者協会の依頼内容とか、王政、市政、山賊の動向とか色んなことが書いてあるの」
 フィアが懐の隠しから活版刷りの紙を取り出してテーブルに乗せた。
「ちょっと見せてもらっていいかな」
 手の平ほどに折りたたんであるのを広げるとびっしりと小さな文字で埋め尽くされている。なぜか同じ記事の新聞が六枚もあるので日付を確かめたら、今日の日付にまじって明日、明後日と未来にわたる分が刷ってある。俺は眉根を寄せながら小さな字で書いてある日付を確かめた。
「これは日付が間違ってないか」
 フィアがくすりと笑って舌で唇のミルクをぬぐった。


「まずは裏を見て」
 新聞を裏返すと、数字と単語が紙面一杯に細々と羅列してある。これは一体なんだろう。
「それが灯火を解読する暗号表よ。野宿をする冒険者のために、主だった狩場まで明かりが届く場所に櫓を組んで、夜に篝火を焚いて各地の出来事を伝えてくれるの。その時に使う暗号を、先々の日付で発行してる。だから表面の記事は数日分は同じなの」
 パンを食べていたフリオが身を乗り出した。
「見せてもらってもいいですか?」
 俺は手を伸ばして新聞を一枚フリオに手渡した。冒険好きなフリオ君は目を輝かせて食い入るように目を通している。ルメイも手を出すので渡してやる。
「俺も実際見るのは初めてだな。一枚幾らなの?」
「銅三枚。一人で行動してたから情報は貴重だし、短い読み物もあって面白いからわたしはいつも買ってるの」
「なるほどね。これ、取っておいて」
 パーティーの山分け用の革袋から銀貨を二枚出してフィアに渡した。フィアは一瞬驚いてから、頷いてそれを受け取った。
 新聞の表面に目を通してみると、文字数を稼ぐために改行が少なく、極小の活字で文字の大きさを揃えているのでどれが見出しか判らない。どこから読み始めるのかと目を走らせているうちに、記事ごとに先頭に菱形の記号を振っているのに気付いた。


◆兎月四旬一日イルファーロ五番街で夜市開催。正午にリース市長が噴水広場にて火移しの儀を執り行う。ニルダの火(自治権)を受けるのは我らが寛容なる父リベルト司祭。火移し後翌日正午迄は五番街のみ商会登録のない者も露店が許される。まがい物に注意し掘出物を探すべし。クォパティ寺院で儀式直後に振る舞われる種なしパン、今年の具は挽肉とエンドウ豆を甘辛く煮たもの(ヘヴィ助祭)。今年も禁酒令が解かれるよう司祭の配慮を乞う。振る舞い酒は五番街教会前深夜。葡萄酒協会会長ファインマンが寄贈された葡萄酒八樽を開く。「泥酔者には槍」衛兵長談(ウァロック記)◆各地で山賊の襲撃多発。兎月二旬二日チコル城址にてネバ配下サッコとオロンゾ他数名に襲撃されたアイリス隊長率いる五名のうち二名死傷。兎月三旬一日カオカパラージ遺跡にて詳細不明六名に襲撃されエリオ隊長率いる四名のうち二名死傷。兎月三旬三日デルティス近郊バスティアラにてネバ配下十数名にラパール商会デルティス支店が襲撃されマルク・ラパール氏(48)が死亡、倉庫内の貴金属類金貨千八百枚相当が盗まれた(バンクス記)


 せっかく幸福な朝を堪能していたのに、山賊たちの記事を読んで暗澹たる気持ちになった。名のあがった賊はネバにサッコ、オロンゾといった連中で、賞金首になった悪党ばかりだ。俺たち冒険者は仕事がやりずらくなるばかりで、今回の探索も遠出になるので野宿は避けられず、気が重い。
 野宿をする冒険者は少ない。
 街の中でさえ夜は暗く、荒野に出たら自分の手も見えない暗黒に包まれる。方向も定まらず、一歩先が崖になっていても判らない。野宿をするなら、黄昏時には野営の準備を終えていなければならない。それが出来ない冒険者は死ぬのだ。
 

 松明を灯して足元を照らせば多少の距離を稼ぐことは出来るが、自分の生まれ故郷でもなければ道に迷う。そして夜に堂々と明かりを灯して移動する者は、山賊の格好の的になる。
 街から離れた僻地に土地勘のある賊どもが、松明の明かりを見つけて押し寄せる様を遠目に見たことがある。ひとつだけ灯った明かりが足早に逃げ出し、それを数十の松明が巻き込みながら追い立てていく。逃亡者は慌てて松明を消すが、みるみるうちに山賊に取り巻かれ、夜空に細い悲鳴があがった。


 フリオは新聞を読みながら摘まんだソラマメを口に運んでいる。ルメイはざっと目を通して新聞を俺に返し、朝食を平らげにかかった。俺も新聞をそっとテーブルに置くと、食事の手をとめてフィアの顔を見た。
「六日分あるということは、片道三日の旅ということかな?」
 フィアは俺を見返して頷く。
「わたしの脚ならもっと早いけど、最初は荷物が多いし、それ位はかかるかもね。現地では二日くらいをみて、戻ってくるには一週間位かかるかな」
「どの辺りなんだい」
 ルメイがスープの皿に視線を落としたまま訊く。もうこの段階でぼんやりした答ではすまない。フィアは一瞬、新聞を読んでいるフリオを見た。そういえば部外者が一人いるのだった。パーティーの行程は外に漏らさないのが普通だが、さすがにフリオは無害なのではないか。
「ちょっと口で説明しずらい場所なんだけど、カオカ遺跡のさらに先って感じかな」
 フィアは話しずらそうにしている。フリオは新聞に書かれていることに心を奪われていて、遠くまで行くのですね、などと上の空で言っている。


 空の光が少しずつ明るさを増してゆく。のんびり飯を食っている時間はなく、そろそろ出立の準備をしなければならない。
「そうか。それじゃ、後でもう少し詳しく聞くことにする。名の知れた狩場ならともかく、知らない場所に行くことになるから午後遅くならないうちに野営の準備を始めることにしよう。かなりの遠征になるが、物資は足りてるか」
 フィアを見て、ルメイを見る。二人とも大丈夫と請け合った。
「よし。我々はもうすぐここを発つんだが、フリオ君は村に戻るのだよな?」
 フリオがあっと声をあげて新聞から目を離した。
「はい、僕も一緒に出ます。宿代と食事代、お支払します」
 フリオが懐から革袋を取り出そうとするのを手で押し止めた。
「お金はいいんだ。さっきも言った通り、君の分はエリーゼさんが好意でうけてくれたから」
 フリオが居心地わるそうな顔をしている。
「でも急に泊めてもらったり、朝食を頂いたりして、申し訳ないのですが」
 フィアがフリオの肩を揺する。
「いいのよ。わたしたちがあなたの村に行くことがあったら、何かおごってちょうだい」
「わかりました。ありがとうございます」
「それじゃ、みんな食べるだけ食べて腹ごしらえしたら、出発の準備を急いでくれ。まずはフリオ君をカオカ街道まで送って行こう。方向が一緒だからね」
 皆が最後にライ麦パンに手を伸ばしてスープを平らげた。エリーゼはパンを多めに用意してくれたが、ルメイとフリオがいるこのテーブルで残り物は出なかった。ソラマメの塩茹でもあとを引くうまさで、誰も残していない。


 荷物をまとめて宿の外に出ると、エリーゼとシュザンヌが見送りに出てくれた。二人は宿の前に立って名残惜しそうにしている。別れ際にエリーゼが小さな包み紙をフィアに手渡すのが見えた。フィアは嬉しそうな顔をしてそれを背嚢の外側の収納に詰め込んだ。
「旅のご無事をお祈りしております」
 エリーゼたちが並んで頭を下げた。俺たちは振り向いて手を振った。色々あったが、良い宿だった。


 フィアとフリオが肩を並べて颯爽と歩いて行く。その後ろを、重そうな背嚢を担いだルメイがついて行く。欅並木はもうすっかり朝を迎えていて明るい日差しに包まれている。空には青空が広がっていて、今日は雨の心配をしなくてもよさそうだ。
 やがて教会の建物が見えてきて、その手前に俺たちが露店をした場所があった。今朝はそこに貸し椅子屋が陣取って、周囲から回収してきた椅子を集めて点検している。若い女が一人、若い衆が走り回って集めてきた椅子を決められた数に重ねて次々と置いていく。それを年寄の男が一人、ひとつひとつ具合を確かめてから脇に重ね直していく。椅子の裏には「貸椅子白銀屋」と焼き鏝が押してあったが、書き入れ時に一家総出で働くの図だろう。


 貸椅子屋の娘は動きやすいようにオーバースカートを腰にたくし上げ、その下に脛が見える高さの薄手のスカートを履いている。エプロンをしてモップハットを被り、その上につば広の麦わら帽子を斜め被っているのがなんとも愛嬌がある。
 思わず立ち止まった。
 脳裏に一枚の絵が閃いてすぐにかき消えた。その残像を慌てて追いかける。この娘が、馬から降りてきた男と話をしている。その男に言伝を頼まれたのだ。その内容までは判らないが、馬に乗って来たのが隊商の護衛役のひとりということが伝わってくる。どうしてかは判らないが、その身だしなみの整った男がカリームの部下であることが判る。
 立ち止まって見詰められているのに気付いた貸椅子屋の娘がいぶかしげに見返してくる。俺は思い切って声をかけた。
「朝から精が出るね。貸椅子屋さんだね」
 こっちがこれから旅立つ冒険者とわかって娘は微笑んだ。この時間にこの場所にいる冒険者たちは、たいてい夜市に露店を出して貸椅子屋の世話になっている。


→つづき

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